2018年2月15日木曜日

「園芸は、国家繁栄のバロメーター」園芸の衰退は国家の衰退。

一本の道をはさんで、「こっちは川崎、あっちは横浜」という市境ちかくに住んでいます。「日本のみならず、世界の園芸史を語るとき、横浜はゼッタイに外せない」ということをこの本を通して思い知りました。






「18世紀から19世紀にかけて、園芸文化史上に燦然と輝くのは、
東洋では日本、西洋では英国であるといわれています。
日本は江戸時代で、英国はヴィクトリア朝時代を中心とした時代でした。」




横浜港から世界に広がっていった誇るべき日本の園芸の歴史を、バックリすぎるほどにおってみると・・・

1853年に黒船ペリーがヨコスカ(カタカナが似合います)に来航→1859年日米修好通商条約にもとづき、横浜港がオープン。山手に外国人が住むエリアができます。その後明治維新が起こると、武家社会が崩壊し、武家中心だった園芸や造園の文化が、民間へと解放されたそうです。
同じく空前の園芸ブームとなっていたイギリスの地では、もともと在来する植物の品種が乏しく、シーボルトが持ち帰ったり図鑑にした日本の在来植物の豊富さが西洋で広まるにつれ「日本にプラントハンティングに行くぞ!」的なブームが起こっていたそうで、日本にある豊富な在来植物を実生で改良しては輸出アンドめずらしい樹木や交配品種の輸入が盛んになったそうです。







こうして、日本の在来植物が横浜港から世界各国の港へ輸出され、また外来の植物や交配された新品種たちが世界の港から横浜へ持ち込まれ、新しモノ好きな日本人によって、さらに植物の種類が豊富になっていったようです。歴史上にのこり、語り継がれるような事象というのは、いくつかの要因が偶発的に重なって、一気に広がることが多いのですが、日本でおきた空前の園芸ブームもその通りだったようです。







確かに、都内の下町を歩いた時のことを思い返してみると、ご家庭の軒先から歩道にまでせり出した鉢植えや庭木たちの種類が「無秩序」といえるほど豊富すぎて、海外ではあまり目にできない光景かもしれません。定番の植えっぱなしは、ツツジ、アジサイ、椿、南天、センリョウ、マンリョウ、柑橘にバラなど昭和から現役の植物をはじめ、アロエ、カクタス、オリーヴにユーカリ。そして、近頃目にすることがグンと増えてきたデザートプランツであるユッカ、アガベにサキュラントたち! 

さしあたり日本列島は、ビル・ゲイツ氏がつくった種子銀行よろしく、世界各国の主要な植物たちが現存している地なのかもれません。

ここで明治22年に発行された園芸専門誌の、實際園藝(じっさいえんげい)創刊号の序文をかみしめたいと思います。



「国の盛なる時 園芸は必ず栄え、その国の亡びんとする時、園芸まず衰う。

園芸は国家繁栄のバロメータ(晴雨計)である。」


ガーデニング・ブームがながく続いている今の日本ということは、もちろん課題はありますが、歴史的に見れば人々の生活が物質的にも精神的にも安定していて、心のゆとりを大切にできるという、喜ばしいことなのです。めでたし、めでたし。
この火をともしつづけるために、がんばっていこう!!!! と心から思いました。








・・・ということで、さらに詳しくは書籍をGETしていただくとして、横浜の歴史に興味を持ちましたため、「横浜市歴史博物館」に足を運んでみました。

 道すがら、「大塚・歳勝土遺跡公園」を散策です。

















茅葺き屋根の見事な古民家は、江戸時代のものだそうで、やっと梅が咲きはじめたこの頃は訪れる人もまだまばらでゆっくりと見学できました。


















公園内には、弥生時代の集落の遺跡や墓地などが復元されています。「横浜市歴史博物館」でガイドさんからお聞きしたお話によると、横浜市は、都筑区や港北区の都市開発のためにかなり大規模な地質調査をおこなったとき、この大きな遺跡が発見されたそうです・・・川崎市は、まばらな宅地開発が行なわれてきたので、知らず知らずのうちに大規模な遺跡が寸断されて見つかってきた可能性があるようです。



















弥生時代をさらにさかのぼる「縄文時代」、日本列島には主に関東に人口が集中し(あと東北に少し)、西日本にはほとんど文明の跡がみられなかったそうです。横浜には、マンモスや、トナカイの祖先のような大型の哺乳類が生息していたとのことです。


















この時代、矢じりやナイフなどに利用されていた「黒曜石」。ガーデニング好きならば、パーライトの原料、と頭に浮かぶ人も多いでしょう。天然の黒曜石は、火山の噴火でできる珪酸塩ですが、子供たちが黒曜石のかけらを「駐車場で見つけた〜」と時折持ってくることがあるそうです。「そのような黒曜石は、ゴミの焼却場でできるんですが、再利用されるゴミ資材が土木資材に混ざるので、新しくできたコインパーキングなどで見つかるんです。」そうです! 火山の噴火でできる鉱石は、なんと今は「高温の焼却炉」でも、つくられるんですね。すごい!



















「なぜ縄文時代の土器は、こんな割れやすいデザインになってるんでしょうか? あのでっぱってるフチは、ゼッタイに欠けやすいですよね?」

「きっと、火にかけて熱くなった土器を持ちやすくするためでしょう。獲物を調理すると、油や血で手がヌルヌルするから、でっぱりに指を引っ掛けて持ちやすくしたのかもしれません。」
























この展示品あたりになると、横浜港が開港して海外との貿易が盛んになっていたことが伺えます。









































結論として、こちらでは横浜港と植物の貿易についての記述は見つけられませんでしたが、縄文時代から人々の生活が息づいていた横浜について、よく知ることができました。